爺の細道 史跡 町石道(ちょういしみち)を歩いて高野山へ登る

  お遍路を回り終わったら高野山へお礼参りをするのが習わしになっています。そのこともあって歴史遺産 町石道(ちょういしみち)を歩いてみることにしました。九度山駅についたのは朝7:04。そこから町石道の起点 慈尊院を目指します。

 町石道は崖崩れで下半分は通行不可だった。

 九度山真田昌幸・幸村 父子が隠棲していた場所として有名でいくつか歴史スポットがあります。しかし、今日は時間が無いのでスルーしました。九度山周辺は柿の産地です。下の写真はたくさん柿がなっています。これは放任園です。本来なら間引きしてもっと大きな実を収穫するはずです。

 慈尊院につきました。ここは空海の母がいたとされている所です。高野山は女人禁制で空海の母と言えども入山は許されなかった。そこで空海は母に会うために1か月に9回も町石道を歩いてここに通ったとの伝説があります。九度山の名前の起源です。似たような話は日蓮にもあります。女性信者獲得のためには有効な説話でしょう。

 門を直進すると神社があります。高野山の山の神 丹生明神を祭っています。高野山に仏教寺院を建てる時、空海はまずこの山の神に許可を願ったそうです。空海の思考の中には神も仏も両立していたと思われます。ちょうど神主の朝のお祈りに出会いました。「かしこみかしこみ申す」というところは聞こえました。

 慈尊院の本堂はおっぱいだらけです。空海の母がいたということで安産の神様になっていました。

 ここで町石道の下半分が崖崩れで通行禁止になっていることを知りました。強行突破できそうな気もしましたが、リスクは取らずに引き返すことにしました。上半分は通行可能で九度山の先の紀伊細川駅から道が通じているとのこと。慈尊院の坊さんがご親切に九度山駅に車で送ってくれました。最高の御接待でした。

 九度山駅で町石道を歩きに来た中年御婦人に遭遇。彼女も強行突破はせず紀伊細川駅から歩くことにして、しばらく彼女と同行しました。小柄な人でしたが驚くべき健脚の持ち主で、私ごときは全く太刀打ちできません。やはり歩くことが趣味で熊野古道など歩いているとのこと。堺市在住で高野山など日帰りコースだそうです。

 九度山駅で30分ほど待ちました。この線は南海電鉄なのでJRなどとは文化が違います。写真は駅のおにぎり屋さん。貸し文庫などあって手作り感が強い。

 紀伊細川駅へ。そこから細い舗装道路を上がって行きます。わかりやすい道でした。写真は途中にあった南天畑。薬用でしょうか、何に使うかわかりませんが、南天を栽培していました。

 町石道に合流しました。最初に出会った町石です。

 町石は重さ0.8トン。鎌倉時代に立てられたとされます。これを人力で1町=約109mごとに置いて行ったわけです。これは三九町と書いてあります。高野山に近づくごとにこの数字が減って行きます。

 かなり急な所もあります。ここを町石にロープをかけて引き上げて行ったとされています。

 高野山には緑色片岩がたくさんあります。四国に多い緑色の石です。これを見て空海は故郷の四国を思い出したのではないか、と空想しました。

 

 大門には昼頃到着しました。起点から登る場合は14:30頃になったはずで、途中から登ったので2時間ほど早く着きました。

 大門の向こうにも町石があります。

 壇上伽藍にある一町の町石。これが起点になります。ここから奥の院に向けても町石があり、だんだん番号が増えて行きます。

 早く着いたので高野山を散策することにしました。

明日の天気予報が雨90%だったので、今日中に主な所は見ておくつもりでした。高野山の主要部分は3つあります。左つまり西から壇上伽藍、金剛峰寺そして奥の院です。900mの山の上にこんな平らな所があるのは非常に珍しいと思います。

 大門から近い壇上伽藍の西の端にあるのは神社でした。祭神は高野山の山の神です。空海高野山建設に際して壇上伽藍から始めたそうですが、その中でもこの神社に最初に手を付けたそうです。空海の頭の中の曼荼羅(マンダラ)には神様も入っていたのかもしれません。

 壇上伽藍です。屋根の檜皮葺(ヒワダブキ)が風格ありです。しかし、普通のお寺と違って、どこに参拝していいかわからない。僧たちの修行の場として作られていて外部からの参拝客を想定していないのかもしれません。祈りの場は奥の院に集約されているというのは私の想像です。

 壇上伽藍の不動堂。この建物自体が国宝です。

 壇上伽藍から金剛峰寺に向かう道です。観光客の半分くらいは外人だったとの印象です。紅葉する樹はそれほど多くありません。

 ここが真言宗総本山金剛峰寺。お遍路の最終段階としてここで般若心経を上げるつもりで暗記してきました。ところがどこに参拝していいかよくわからない。ここはお寺全体が宗派を総括する総本部で会議場と事務局のような場所ではないかと思います。この本堂の内部には襖絵など鑑賞するものが多いようで観光客は入場料を払ってぞろぞろ入って行きます。私は先を急ぎました。

 空海がまだ生きているという伝説の奥の院入口です。ここから先は写真は撮れるのですが、何となく遠慮しました。テレビで報道されるように武田信玄石田三成のお墓がありました。

 奥の院の一番奥の空海の廟まで行きました。この領域は写真不可です。ここでやっと般若心経を唱えました。廟の前の堂では大勢の僧侶が読経しており、私のお経は空海さんには雑音だったかもしれません。

 奥の院には大変な数のお墓があります。ここに墓を作ることが一種のステイタスになっているようです。歴史上の人物の他に現代の企業が縁故者や創業者を弔う墓を作っていました。写真はその中でも最も目立ったもの。アポロ計画のサターン5です。さすがに中央部ではなく駐車場出口に近い所に置かれていました。

 奥の院から帰る途中にふと立ち寄った苅萱堂(かるかやどう)です。壁に苅萱(かるかや)童子の説話が絵本のように解説してありました。長いので省略しますが、一夫多妻制の中での男女間あるいは女女間の葛藤とか出家した父が会いに来た息子に対して名乗れずに苦悶するとか、現代人が共感することは難しい話でした。中世の日本人の感覚を知る上での研究対象としては面白いと思います。

 高野山でのお勧めは霊宝館です。高野山にある多数のお堂に安置されていた仏像や仏画が保存のために集められていました。特に快慶の仏像を集めた部屋があり、たまたま一人で仏像群と面会することができました。ここは写真不可なのでインターネットから採取した快慶作の孔雀明王です。私はこの像の前に20分ほど座っていました。高野山に来て良かったと思えるとても貴重な時間でした。

くじゃくみょうおうざぞう

 紅葉の季節はハイシーズンで宿坊が全く予約できず、大門近くの民宿に泊まりました。風呂無し、食事無し、トイレとシャワーは共用。他の客は欧米系白人でした。食事ができる店が非常に少なく、民宿に教えてもらって外に出ました。壇上伽藍の門がライトアップされていました。しかし、かんじんの本堂は暗いままでした。ここで般若心経を唱えて、とりあえずお遍路の御礼をしました。

 翌日は予報通りの大雨でした。長居は無用で朝6:25のバスでロープウエイ駅に向かい下山しました。かなり遠いしバスは1時間に一本くらいなので要注意です。下の写真はロープウエイの終点 極楽橋駅のホームにいた青いミミズ、カンタローミミズです。四国以外で見たのは初めてです。緑色の石といい青いミミズといい高野山には四国との共通点があるようです。このままでは干物になってしまうので助けてやりたかったのですが、小さな蛇くらいの大きさのミミズに素手で触るのは気持ち悪いし、電車の時間が迫っていたのでスルーしてしまいました。

 高野山は宗教都市と言われていますが、都市と呼ぶには不便過ぎます。バスの本数が少ない上に食事ができる店が非常に少なく、腹をすかせた観光客が、私も含めて、難民化していました。コーヒー店やお菓子の店はそこそこありましたがニーズが違う。ここへ来るときはお弁当を持ってきた方がいいと思います。

 今回は町石道と高野山散策が重なったので歩数は4万歩を越えました。これで今年の遠出の歩き旅は終了です。予算・決算、総会資料、引継ぎ準備と、自治会の仕事がこれから佳境に入ります。やれやれ。