昨日の険しい山道とは違って平坦な道を歩いた。江戸時代の四国の玄関口は鳴門の撫養(ムヤ)港だった。そこから伊予まで伸びる撫養(ムヤ)街道が当時の幹線道路である。お遍路の札所1番から10番はこの撫養街道沿いにある。
夜明け前にホテルを出て徳島駅5:51発の列車で池谷(イケノタニ)駅に向かった。3両編成であるが私が乗った車両の乗客は私一人だった。池谷駅は高徳線(高松/徳島間)と鳴門線(池谷/鳴門間)の分岐点にあり特急も止まるが無人駅である。
ここから撫養街道を東へ鳴門の方向へ向かう。宇志比古神社の門が目指す東林院の入り口である。八十八ヵ所の中には神社とペアになって隣接している寺院が多い。昔は神と仏が仲良く役割分担していたようである。それを明治初期の廃仏毀釈、神仏分離令が破壊しようとした。明治3年のことである。
宇志比古神社は八幡様、つまり応神天皇を祭っている。隣に東林院がある。元々は1番札所霊山寺の奥の院の位置づけだったが、その後 種蒔(タネマキ)大師として農業関連の信仰を集めるようになった。タネマキを趣味としている私としては参拝しておきたいところだった。
東林院から住宅の間をぬう近道を阿波神社に向かった。
余談であるが千葉県房総半島の南部はかって安房(アワ)の国と呼ばれていた。安房神社という阿波神社と発音が同じ神社もある。伝説によると天富命(アメトミノミコト)に率いられた忌部(インベ)一族が徳島の阿波から房総の安房に移り住み南房総を開拓したとされる。阿波と安房は繋がっていたのである。
この写真は徳島県の阿波神社で祭神は土御門天皇である。この人は後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して戦いを仕掛けた承久の変の時の天皇である。彼自身は承久の変に関わっておらず鎌倉幕府も特に彼を罰するつもりはなかったようであるが、彼は自発的に退位して四国の鳴門に隠棲してしまった。この阿波神社は土御門の邸宅跡とされる。鳴門の港からかなり離れていて、当時は相当の田舎だったと思われる。
神社の中にあった絵である。坊さんたちが楽器を演奏している。説明は何も無いのでわからないが、隠棲した土御門を慰めている図かもしれない。実際にはこのようなにぎやかな行事は無かっただろうから、後の人が彼をかわいそうに思って描いたのではないかと想像した。
神社の入り口近くに土御門天皇の火葬塚がある。お墓は畿内にあるので遺骨は移されたと思われる。宮内庁管理 立入禁止になっていた。
下の図はGoogle Mapの航空写真のコピーである。この火葬塚は堀に囲まれた小さな古墳のような形状である。
阿波神社を離れ再び撫養街道を今度は西へ向かう。十輪寺に到着。ここはゼロ番札所とも言われている。1番札所の前にあり撫養街道を歩いてきたお遍路たちはここで遍路の作法を教わったとされる。看板には談義所とある。八十八ケ所が合議を行う場合はここで行うらしい。参拝しようとしたが、不思議な造りの寺で、どこが本堂だかわからない。賽銭箱も無い。本堂らしきと建物に参拝した。寺というよりも会議場のような施設かもしれない。
1番札所 霊山寺に到着。3回目である。お遍路の装束などを売る店が移転して新しくなっていた。本堂は大きいので中で参拝できる。写真は寺の内陣である。お遍路は50名以上いた。遍路装束で中国語を話す一団もいた。
寺の境内に三鈷の松があった。日本では珍しい三葉松である。高野山には三葉松の大木があり仏具の三鈷に似ているので神聖な樹として扱われていて、その子孫と思われる。下の写真のように1つの茎から葉が3本出ている。一般的な赤松、黒松は2本、盆栽につかう五葉松は5本出ている。落ちている種をいくつか拾った。植える場所も無いのに種を集める習慣が抜けない。(プロペラのような種が松の種だと思って拾ったがカエデの種かもしれない。)
霊山寺の前は新道の川北街道が旧道の撫養街道とほぼ平行に走っている。この川北街道を西に向かって2番札所 極楽寺に向かった。距離は1.5kmしかない。派手な新しい門であるが、本堂は風格がある。霊山寺で出会った中国人の一団にまた出会った。彼らは車移動であるが、じっくり寺を鑑賞しているようで歩き旅の私と追いつ追われつになった。彼らがあげるお経を後ろで聞いていた。もちろん中国語である。おそらく般若心経と思われるが当然であるが発音は全く異なり、ギャーテイ ギャーテイ(羯諦 羯諦)とは言わなかった。
2番札所極楽寺から3番札所金泉寺までは街道を離れ遍路道を行く。距離は約3km。ほぼ市街地を抜けて行く。この区間にはしつこいくらいに道しるべがある。歩き始めたばかりの遍路には親切にしておこうということだろう。しかし、この先に行くと道案内が無いとても不親切な区間があることは覚悟すべき。
これが私にとって本当に最後の遍路道。最初に来た時 ゴミが落ちていないことに感動した。そんな何でもない道の何でもないことに感動しながらここまで歩いてきた。
3番札所 金泉寺に着いた。また中国人一行がいた。
この金泉寺の境内に長慶天皇の墓と言われる場所があった。長慶天皇は第98代天皇とされるが南朝の3代目である。和歌や源氏物語の注釈書を書くなど学芸に優れた人物だったらしい。晩年は出家している。彼の在位時には南朝は既に衰退していて資料があまり残っていない。晩年金泉寺に滞在したとの伝説があるが、他の資料をネットで見たら金泉寺の名前は出てこなかった。岩を置いただけの粗末な墓だった。最近になって屋根がついたようだ。
金泉寺から板野駅へ歩き帰路に就いた。今日は約25000歩。約20kmの行程だった。
これで3回目のお遍路はおしまい。今回の3日間はキャラの濃い場所を選んだこともあるが結構 中身は濃かったと思う。私はこれまで国内、海外 いろんなところを旅してきた。その中で最も面白かったのが遍路旅だった。なぜなら毎日のように驚きと感動があったからである。例えば今日の驚きは天皇でありながら敗者となった人物に二人も出会ったことだった。また来ることがあるかもしれないが、それは相当先になるだろう。歩きたい道はまだまだある。