爺の細道 下野薬師寺跡に行ってみた

 西暦740~750年 聖武天皇は奈良に東大寺を建立し全国に国分寺国分尼寺を置き、仏教による国内統治を目指した。当然 お坊さんを至急養成しなければならず唐から高僧鑑真を呼び戒壇(お坊さん免許交付センター)を全国に3か所置いた。それが東大寺戒壇院(奈良市)、筑紫観世音寺(福岡県太宰府)そして下野薬師寺(栃木県下野市)である。これを聞いた時、東の辺境(栃木県の人 気を悪くしたらごめんなさい。あくまでも1300年も前の話です。)にいきなりこんな施設ができるのが不思議だったので行ってみた。

 JR宇都宮線自治医大駅に8:40分着。下車する人は数人しかいない。医大の学生はここに住んでいるのか、朝早い授業が無いのか。街も住宅地も明らかに最近できたばかり。歩いている人は少ない。薬師寺跡には徒歩30分くらいで到着。

 まずは歴史館に行ってみた。入場無料。もちろん客は誰もいない。私が入ったのでビデオのスイッチを入れてくれた。薬師寺が出来たのは7世紀末。つまり、戒壇がおかれる50年以上前になる。関係者に天智天皇の名前があった。当時は庶民はまだ竪穴式住居に住んでおり、そんなところに寺院が建ったら、それは目立ったと思われる。やがて天台宗など平安仏教が独自に戒壇を作ったので存在意義が無くなり、国家の庇護も失い荒廃したそうである。

 薬師寺跡には寺院を囲っていた回廊の一部が復元されていて、戒壇があったと思われる場所に六角堂が作られていた。

 六角堂の中にちらっと見えるのは鑑真の像、背後に大きな木彫りの釈迦像がある。ガラス戸がはまっているので像の写真はうまく撮れなかった。

  元の薬師寺は焼失し、その後再建され室町幕府により安国寺と改名されたが、これも焼失。今も薬師寺があるが、真言宗智山派なので飛鳥時代薬師寺とは別物である。

 和尚さんが通りかかったので立ち話してみた。1300年前にここに寺院が建てられた理由について話を聞いたところ、このあたりは北関東を支配していた豪族の本拠であり、渡来人もたくさんいた。それなりに文化の高い地域だったはずである とのこと。北関東には小型の円墳がたくさんあり、独自の文化があった可能性はあると思う。また、大和王権としては東北を意識した軍事拠点を作る意図もあったかもしれない。(時代は変わるが成田山新勝寺平将門の乱の反省に基づき関東の軍事・情報収集拠点として作られている。)

 五重の塔の跡。回廊に囲まれた寺院の外側にあり、最初の五重の塔が焼失した後に再建された塔である。それももはや存在しない。背後の建物は今の薬師寺である。

 薬師寺跡に隣接して八幡神社があった。寺と神社がペアになっているところは全国に多数ある。

 八幡神社の入り口にある雷電神社雷電と言っても江戸時代の伝説の相撲力士とは無関係で、カミナリの神様である。北関東は全国的に見ても雷の多い地域である。たぶん、古代からある民間信仰と思われる。ここがパワースポットの源で薬師寺八幡神社を呼び寄せたのではないかと妄想した。

 近くに元興寺という真言宗の寺があり、その境内に道鏡の墓があった。道鏡大和朝廷にて法王にまで登り詰めたが、失脚し下野薬師寺に左遷され、その2年後に死亡している。その時、朝廷は特別な葬儀は不要で一般庶民と同様に弔えとの冷たい指示を出したという。道鏡は当時の女性天皇をたぶらかし自分が天皇になろうとしたとして、日本3大悪人の一人と言われているが、実際は不明である。道鏡の名誉回復を試みている人たちがいて、彼らのメッセージが掲示されていた。ちなみに3大悪人の他の2人は平将門足利尊氏だそうでいずれも天皇に逆らった人たちである。歴史は後の世代の人たちが自分たちの都合の良いように書くものである。天皇制を最上位に置きたい人たちの考えが透けて見える。

 この後 自治医大駅まで歩き昼食を食べて帰宅。歩数は約12000歩。私の旅もだんだんマニアックになってきた。想像力を働かせれば廃墟や痕跡も楽しい。桜満開だった。