爺の細道 3回目のお遍路 2日目 阿波の12番札所焼山寺と奥の院

 遍路ころがしを避けて裏から登った。

  11番札所藤井寺から12番札所焼山寺までの遍路道には登り下りの急坂が交互に連続していて「遍路ころがし」と呼ばれる難所がある。この登り下りを合計すると高低差は1000mを越えると言われている。私はここを2回登ったが、いずれも体力的、時間的に限界でその先の奥の院まではとても行けなかった。そこで今回は裏から神山集落をスタートして登ることにした。これなら下りが無いので早く楽に着けると考えた。さらに通常の遍路道ではなく焼山寺より先に奥の院を通る山道を使うことにした。

 この図はGoogle Mapからのコピーであるが距離と時間はほとんどあてにならない。また、私は逆方向から立ち入ったので知らなかったのだが、焼山寺から奥の院へ向かう山道は現在通行禁止になっている。滑落すると命が危ない危険路でありお勧めできない。

 徳島駅前7:05の始発バスに乗り神山高校前到着は8:17。山道は途中まで舗装されている。ただし、分かれ道が多く本道の見分けが難しい。道を間違える可能性があるので12時までに着かなければそのまま引き返すことを覚悟した。

 道の両脇には石積みが多い。かってここには集落があったことを意味している。

 

 空家、廃屋もあった。暗くなったら歩きたくない道である。

 

 途中で「竜王窟」の立札があったので舗装道路を離れて山道に入った。やはりほとんど歩く人がいないらしく落葉、枯枝を踏み倒木を避けて進む。ところがかなりの急斜面を横切ったり細い尾根道で両側が急斜面というところばかりで高所恐怖症にはつらい。滑落したらたぶん帰れない。

 巨石信仰の痕跡ではないか。

 竜王窟に到着。巨大な岩のオーバーハングである。岩は緑色の緑色片岩。四国特有の石で焼山寺山はほとんどこの石でできているようだ。この右側を回ってさらに登る。

 予想していたより長い登りを経て奥の院に到着。ここは焼山寺山(938m)の山頂である。

 焼山寺奥の院は木々に囲まれていて見晴らしは良くないが、一カ所だけ木に隙間があって四国の山々が眺められた。

 ここからまた絶対に転んではいけない、転んだら滑落する崖の上の道を降りて行く。登るより降りる方がこわい。
 大蛇封印の岩屋に着いた。むかしむかしこの山には大蛇が住んでいて人々を苦しめていた。そこで空海がこの大蛇を鎮めようとしたところ、大蛇は火を噴いて山は火炎に包まれた。それが焼山の名前の由来である。しかし、空海は法力をもって大蛇をこの岩に封じ込め、人々を救ったとのこと。漫画か特撮映画のような戦いが行われたわけで空海超人伝説の中でも最もド派手なものと思う。

 この大きな岩は扉のように見えなくもない。この扉が開いたら大蛇が飛び出してくるわけだ。実はこの岩も今回の旅の目的の一つ。

 ここから厳しい道をさらに降りて焼山寺へ向かった。山道の出口に「通行禁止」の立札ありロープが張ってあった。知らなかったとは言え、通ってはいけない道を通ってきた。確かにこの道は危険なのでお勧めできない。無事に焼山寺に着いたのは運が良かったからだろう。焼山寺は裏から登っても難所だった。

 焼山寺縁起。先に述べた大蛇封印の話が書いてある。

昼過ぎ 10人ほどのお遍路がいたが、数分だけ誰もいなくなった。

 帰りは通常の遍路道を使った。これもそこそこの急坂だが登ってきた山道に比べると楽だ。途中にある番外霊場 杖杉庵。最初のお遍路 衛門三郎の終焉の地である。彼は旅を続ける空海を追って八十八カ所を20回巡ったが、21回目にここで力尽きて倒れた。その枕元に空海が現れ、石を握って生まれ変わるであろうとを告げる。そして彼は石を握って生まれ変わった。その石は伊予の51番札所石手寺に寺宝として展示されている。詳しくは下の杖杉庵縁起を参照のこと。

 帰り道は左右内(そうない)川の渓流に沿って下って行く。四国の緑色の石 緑色片岩が美しい。

 神山高校前バス停に到着したのは14時半頃。ちょうど14:41発のバスが来たのでラッキーだった。この日は37000歩だった。きついというより怖かった。このルートは2度と来たくない。
 やはり焼山寺から降りてきた40~50歳くらいの男性と会話。ブラタモリに触発されて撫養(ムヤ)街道沿いの1番札所から奥様と歩き始め、大阪から時々 四国へ来て少しづつ歩いて全歩きお遍路を目指している。今回はバスで帰り、次回はまた神山までバスで来て次の札所まで歩くという具合に続けている。奥様はお亡くなりになったので一人で歩いている。お遍路に関連する有名な俳句がある。

「お遍路の誰もが持てる不幸せ 白像(高野山第406世座主)」

 ちなみに私の父は幼少期徳島にいたことがある。私がお遍路に着てきたシャツは父の遺品である。