第51回 秋の名残と春の兆し

 正月も終わろうとしています。我家の庭にはまだ秋の名残があります。2019年に1回目の四国お遍路に出た時、四国の山野に実るサネカズラの鮮やかな赤に感動して種を採ってきました。四国の方々には珍しくない植物でしょうが、関東では見たことはありません。結実するまで3年かかりました。4年目の今期は比較的多くの実がなりました。

 ところが関東ではサネカズラの実を鳥が食べるようです。四国ではこの実を食べる鳥がいないらしく年を越してもそのまま実が残りますが、我が家では芯だけになってしまいます。この写真の実は比較的大きな実だったので熟すまで待っていたら鳥に先を越されてしまいました。1枚目の写真は地面に近いので残ったものです。

 この写真はロウバイの蕾です。これも2019年に種を蒔いて4年目にやっと開花しそうです。モモクリ3年。樹木は時間がかかります。

 最後は水仙です。温暖化のせいかだんだん開花が早くなるような気がします。もはや冬の花です。これは早咲きの品種です。ラッパ水仙などは2月下旬~3月に開花します。

 寒波・大雪で始まった今年の冬ですが、長期予報通りスーパーエルニーニョによる暖冬になるのでしょうか。大地震能登に雪がほとんど無いので暖冬の気配があるような気がします。

我家の謎のならわし/雑煮に餅ではなくヤツガシラを入れる

 我家では元旦の朝の雑煮に餅を入れずヤツガシラを入れます。その理由は伝承されていません。これまで私は同じような風習を持つ人に一度も出会ったことがありません。

  年末の私の仕事はヤツガシラの買い出しです。割らずに一人で一個食べるので小さめのイモを選ばなければなりません。そして大みそかの午後にヤツガシラの泥を落とし皮をむきます。出来るだけ割らないようにします。だいぶ小さくなります。

 我家の先祖は鹿児島から出てきています。鹿児島へ旅行した時に県立博物館の学芸員に質問しましたが、鹿児島では聞いたことがないと言われました。民俗学では「餅無し正月」と言って何らかの理由で餅が禁忌とされた集落や家族が各地に散在することが知られています。我家の場合は餅が禁忌ではありません。元日の朝は餅ではなくヤツガシラを食べるだけで餅を食べてはいけないとは言われていません。料理法は伝承されておらず代々の奥方が工夫して来たようです。写真は我家のヤツガシラ雑煮です。みそ仕立てで香りづけにミツバを入れています。

 この風習の由来について私が考えた仮説は4つ。

① ご先祖がとても貧乏で餅が食べられなかった。

② ご先祖がタロイモを主食とする南方からの渡来人だった。

③ ご先祖が縄文時代の風習を守ってきた。

④ ご先祖がイモが好きだった。

 無形文化財のようなものなのでできるだけ子孫に伝えて行こうと思っています。どなたか元旦の雑煮に餅ではなくヤツガシラを入れている方がおられましたらコメントください。

  この写真は本日(1月1日)の初日の出です。大勢の人が早起きしています。本年も良い年でありますように。

 

 

番外:驚愕! ローリングストーンズは80歳過ぎても全く懲りていなかった。

 ローリングストーンズの新CD「Hackney Diamonds」(古ぼけたダイヤという意味らしい)を聞いて驚いた。ドラムのチャーリーが亡くなり、3人になったストーンズのポスターを見て、多少センチメンタルな音楽になるのではないかと予想(期待)していたが、全く裏切られた。彼らは全く懲りていなかった。むしろ前回のCD「Bigger Bang」よりひどくなっていた。より小細工が無くなり、ドラムをたたき、ギターをかき鳴らし、ブルースにこだわり、このストレートさは感動的だった。80歳のミックが昔と同じように歌えることは驚異である。最後にミックとキースの2人だけでブルースをやっているところがちょっとだけセンチメンタルになるかもしれない。

 ローリングストーンズの音楽はmusicと言うよりもperformanceという表現がピッタリすると思う。一期一会の2度と帰らない時間の中で彼らは音を出している。だから彼らは続けられるのだと思う。

 一方 81歳のポールマッカートニーが古い音源を探し出してAI加工して世に出した「Now and then」は、お涙頂戴の極致であり、私も見事に引っかかって不覚にもウルウルしてしまった。You TubeでMVを見られることをお勧めする。まだ生存しているポールとリンゴが老人になっているまわりを今は亡きジョンとジョージが若い姿でふざけまわる。これまで何とかやってこれたのは、みんな君のおかげ。時々(now and then) 君がなつかしい、という歌詞がジワッと来る。デビュー当時のビートルズが演奏後に最敬礼するところで終わる。これが泣かせどころである。

 ミックもポールも素晴らしい年の取り方をしている。ただし、何億も稼いでいる彼らと自分を比べるのは無理なのであるが。

(写真はポールマッカートニーとローリングストーンズ)


 

自治会長になってしまった 第10回 同好会グループはなぜ続かないのか

  自治会の役員と班長は輪番制で回ってくるので逃げるわけにいかず、従って存続します。しかし、歌の会やら踊りの会やらお花の会やら囲碁将棋の会はなぜか次の世代が参加せず構成員が高齢化すると消えていきます。

 現在は井戸端会議の機会がほとんど無くて「隣は何をする人ぞ」状態です。これでは老人の孤独死が起こりかねないと民生委員さんは心配しています。いろいろな同好会が地域内にあれば、少なくとも顔見知りになってくれると思うのですが、なかなか同好会は継続して育ってくれません。

 高齢の方々は若手が入ってくれないと嘆きます。しかし、自分たちが入会のハードルを上げてしまっているケースが多いと思います。あまり仲が良すぎるグループには入りづらいものですし、要求されるレベルや真面目さが高いとこれまた入りづらい。第2グループができると競争になったりして空気が悪くなりそう。一度消えたら冷却期間を置いてまた次のグループができるという風にするしかなさそうです。森の植物相の遷移を連想しました。

 

 余談ですが、下の写真は「高齢女性向けの生け花教室」と「高齢者が集まる囲碁将棋の会」をBing AIに描かせたものです。現実のものではありません。すごく変です。このAIはアメリカ製なので生け花も囲碁も知らないらしい。

高齢女性向けの生け花教室の絵 A group of elderly people playing Go and Shogi

 

第50回 晩秋の塩尻にて

  久しぶりに園芸関係です。今年最後の塩尻行でした。作業は梅など樹木へのマシン油乳剤の休眠期散布。アブラムシなどの昆虫の卵を除去するためです。それに雑草地へのラウンドアップ散布。これで春の除草作業がほとんど不要になります。現役時代の最後の頃 やったこともないのに偉そうに技術指導していたことを引退してから実行しています。本当はマシン油乳剤処理には1~2か月早すぎるし、ラウンドアップ処理には2週間ほど遅すぎます。しかし、遠距離なので仕方ありません。

 ナツメの実が鈴なりでした。昔は子供のおやつになったそうですが、水気の抜けたボケたリンゴのような味で今の子供たちは歓迎しないでしょう。鳥が食べた形跡もあまりありません。

 メタセコイヤがきれいに紅葉していました。北の丸公園で拾った種から育てました。

 ウバユリがぎっしりと種をつけていました。この栽培は難しそうなので自然に任せることにして放置です。

 マユミです。実の形が面白いので旅先で採ってきた種を育ててやっと実をつけました。

 ムラサキシキブです。平野部では鳥がさかんに食べますが、この高原ではそれほど食べられないようです。

 コブシの実です。近所の街路樹から種を採って育てたものです。今年初めて実をつけました。おそらく日本古来の品種ではなくて海外から来た園芸種です。はてなブログで拝見しているhuukyou先輩が不気味な形をしていると指摘されているように変な実です。

 ウメモドキ。宝石のような赤い実をつけます。それほど大きくならないので庭木にもできます。この小さな実の中の小さな種からよくぞ育ったものだと感心しています。

 翌日は雨でほとんど作業できず、温泉を使った公衆浴場で時間をつぶしました。帰り道の談合坂サービスエリアで撮った写真です。谷間に雲海が出来ていました。

 今年の作業はこれで終了。来春は4月下旬に来る予定です。


爺の細道 史跡 町石道(ちょういしみち)を歩いて高野山へ登る

  お遍路を回り終わったら高野山へお礼参りをするのが習わしになっています。そのこともあって歴史遺産 町石道(ちょういしみち)を歩いてみることにしました。九度山駅についたのは朝7:04。そこから町石道の起点 慈尊院を目指します。

 町石道は崖崩れで下半分は通行不可だった。

 九度山真田昌幸・幸村 父子が隠棲していた場所として有名でいくつか歴史スポットがあります。しかし、今日は時間が無いのでスルーしました。九度山周辺は柿の産地です。下の写真はたくさん柿がなっています。これは放任園です。本来なら間引きしてもっと大きな実を収穫するはずです。

 慈尊院につきました。ここは空海の母がいたとされている所です。高野山は女人禁制で空海の母と言えども入山は許されなかった。そこで空海は母に会うために1か月に9回も町石道を歩いてここに通ったとの伝説があります。九度山の名前の起源です。似たような話は日蓮にもあります。女性信者獲得のためには有効な説話でしょう。

 門を直進すると神社があります。高野山の山の神 丹生明神を祭っています。高野山に仏教寺院を建てる時、空海はまずこの山の神に許可を願ったそうです。空海の思考の中には神も仏も両立していたと思われます。ちょうど神主の朝のお祈りに出会いました。「かしこみかしこみ申す」というところは聞こえました。

 慈尊院の本堂はおっぱいだらけです。空海の母がいたということで安産の神様になっていました。

 ここで町石道の下半分が崖崩れで通行禁止になっていることを知りました。強行突破できそうな気もしましたが、リスクは取らずに引き返すことにしました。上半分は通行可能で九度山の先の紀伊細川駅から道が通じているとのこと。慈尊院の坊さんがご親切に九度山駅に車で送ってくれました。最高の御接待でした。

 九度山駅で町石道を歩きに来た中年御婦人に遭遇。彼女も強行突破はせず紀伊細川駅から歩くことにして、しばらく彼女と同行しました。小柄な人でしたが驚くべき健脚の持ち主で、私ごときは全く太刀打ちできません。やはり歩くことが趣味で熊野古道など歩いているとのこと。堺市在住で高野山など日帰りコースだそうです。

 九度山駅で30分ほど待ちました。この線は南海電鉄なのでJRなどとは文化が違います。写真は駅のおにぎり屋さん。貸し文庫などあって手作り感が強い。

 紀伊細川駅へ。そこから細い舗装道路を上がって行きます。わかりやすい道でした。写真は途中にあった南天畑。薬用でしょうか、何に使うかわかりませんが、南天を栽培していました。

 町石道に合流しました。最初に出会った町石です。

 町石は重さ0.8トン。鎌倉時代に立てられたとされます。これを人力で1町=約109mごとに置いて行ったわけです。これは三九町と書いてあります。高野山に近づくごとにこの数字が減って行きます。

 かなり急な所もあります。ここを町石にロープをかけて引き上げて行ったとされています。

 高野山には緑色片岩がたくさんあります。四国に多い緑色の石です。これを見て空海は故郷の四国を思い出したのではないか、と空想しました。

 

 大門には昼頃到着しました。起点から登る場合は14:30頃になったはずで、途中から登ったので2時間ほど早く着きました。

 大門の向こうにも町石があります。

 壇上伽藍にある一町の町石。これが起点になります。ここから奥の院に向けても町石があり、だんだん番号が増えて行きます。

 早く着いたので高野山を散策することにしました。

明日の天気予報が雨90%だったので、今日中に主な所は見ておくつもりでした。高野山の主要部分は3つあります。左つまり西から壇上伽藍、金剛峰寺そして奥の院です。900mの山の上にこんな平らな所があるのは非常に珍しいと思います。

 大門から近い壇上伽藍の西の端にあるのは神社でした。祭神は高野山の山の神です。空海高野山建設に際して壇上伽藍から始めたそうですが、その中でもこの神社に最初に手を付けたそうです。空海の頭の中の曼荼羅(マンダラ)には神様も入っていたのかもしれません。

 壇上伽藍です。屋根の檜皮葺(ヒワダブキ)が風格ありです。しかし、普通のお寺と違って、どこに参拝していいかわからない。僧たちの修行の場として作られていて外部からの参拝客を想定していないのかもしれません。祈りの場は奥の院に集約されているというのは私の想像です。

 壇上伽藍の不動堂。この建物自体が国宝です。

 壇上伽藍から金剛峰寺に向かう道です。観光客の半分くらいは外人だったとの印象です。紅葉する樹はそれほど多くありません。

 ここが真言宗総本山金剛峰寺。お遍路の最終段階としてここで般若心経を上げるつもりで暗記してきました。ところがどこに参拝していいかよくわからない。ここはお寺全体が宗派を総括する総本部で会議場と事務局のような場所ではないかと思います。この本堂の内部には襖絵など鑑賞するものが多いようで観光客は入場料を払ってぞろぞろ入って行きます。私は先を急ぎました。

 空海がまだ生きているという伝説の奥の院入口です。ここから先は写真は撮れるのですが、何となく遠慮しました。テレビで報道されるように武田信玄石田三成のお墓がありました。

 奥の院の一番奥の空海の廟まで行きました。この領域は写真不可です。ここでやっと般若心経を唱えました。廟の前の堂では大勢の僧侶が読経しており、私のお経は空海さんには雑音だったかもしれません。

 奥の院には大変な数のお墓があります。ここに墓を作ることが一種のステイタスになっているようです。歴史上の人物の他に現代の企業が縁故者や創業者を弔う墓を作っていました。写真はその中でも最も目立ったもの。アポロ計画のサターン5です。さすがに中央部ではなく駐車場出口に近い所に置かれていました。

 奥の院から帰る途中にふと立ち寄った苅萱堂(かるかやどう)です。壁に苅萱(かるかや)童子の説話が絵本のように解説してありました。長いので省略しますが、一夫多妻制の中での男女間あるいは女女間の葛藤とか出家した父が会いに来た息子に対して名乗れずに苦悶するとか、現代人が共感することは難しい話でした。中世の日本人の感覚を知る上での研究対象としては面白いと思います。

 高野山でのお勧めは霊宝館です。高野山にある多数のお堂に安置されていた仏像や仏画が保存のために集められていました。特に快慶の仏像を集めた部屋があり、たまたま一人で仏像群と面会することができました。ここは写真不可なのでインターネットから採取した快慶作の孔雀明王です。私はこの像の前に20分ほど座っていました。高野山に来て良かったと思えるとても貴重な時間でした。

くじゃくみょうおうざぞう

 紅葉の季節はハイシーズンで宿坊が全く予約できず、大門近くの民宿に泊まりました。風呂無し、食事無し、トイレとシャワーは共用。他の客は欧米系白人でした。食事ができる店が非常に少なく、民宿に教えてもらって外に出ました。壇上伽藍の門がライトアップされていました。しかし、かんじんの本堂は暗いままでした。ここで般若心経を唱えて、とりあえずお遍路の御礼をしました。

 翌日は予報通りの大雨でした。長居は無用で朝6:25のバスでロープウエイ駅に向かい下山しました。かなり遠いしバスは1時間に一本くらいなので要注意です。下の写真はロープウエイの終点 極楽橋駅のホームにいた青いミミズ、カンタローミミズです。四国以外で見たのは初めてです。緑色の石といい青いミミズといい高野山には四国との共通点があるようです。このままでは干物になってしまうので助けてやりたかったのですが、小さな蛇くらいの大きさのミミズに素手で触るのは気持ち悪いし、電車の時間が迫っていたのでスルーしてしまいました。

 高野山は宗教都市と言われていますが、都市と呼ぶには不便過ぎます。バスの本数が少ない上に食事ができる店が非常に少なく、腹をすかせた観光客が、私も含めて、難民化していました。コーヒー店やお菓子の店はそこそこありましたがニーズが違う。ここへ来るときはお弁当を持ってきた方がいいと思います。

 今回は町石道と高野山散策が重なったので歩数は4万歩を越えました。これで今年の遠出の歩き旅は終了です。予算・決算、総会資料、引継ぎ準備と、自治会の仕事がこれから佳境に入ります。やれやれ。

爺の細道 古市・羽曳野古墳群を散策する

 歩き旅シーズンなので立て続けに旅に出ています。古市駅を出発して白鳥陵→墓山古墳→誉田(こんだと読む)八幡宮応神天皇陵→仲津山古墳→允恭天皇陵→土師ノ里(はじのさと)駅と歩き、ここから列車で三国ヶ丘まで移動して仁徳天皇陵へ行きました。

 実は古市古墳群についてかねてから疑問に思っていたことがありました。前方後円墳の向きがバラバラであることです。古代人は方角を重要視していたはずで、この古墳の向きには何かしら法則が隠れているのではないかと半ば期待していました。以前 国立歴史民族博物館の学芸員に質問したところ、古墳は元の地形を活かして作られていて、その向きには人為的な法則性は無いとの答え。ちょっとがっかり。しかし、現地を見てこの学芸員の回答を理解しました。なにしろ大きすぎるのです。作るのに精一杯で、その向きを工夫する余裕はなかったであろうと考えられました。

 古市駅から白鳥陵はすぐです。古事記で最も印象的な人物はおそらくヤマトタケルでしょう。亡くなる時の「大和は国のまほろば」の歌は印象的ですし、そのヤマトタケルの墓から白鳥が飛び立ち、この白鳥陵の場所に舞い降りた後、天に向かって飛んでいく最後はなかなかのドラマです。しかし、その戦い方は、九州のクマソタケルを討ち取る時に女に化けて近づいて後ろから刺し殺すなど、あまり美しくありません。当時の日本人の価値観を反映しているとの説があります。下の写真は住宅地から見える白鳥陵です。白鳥陵は古墳群の中では中型の古墳です。それでもこれだけ大きい。特に高さは想像以上でした。

 墓山古墳は羽曳野市役所のすぐ裏にあります。まわりに培塚(おそらく家来の墓)がいくつかあります。これらは方墳でした。他の巨大古墳のまわりにも培塚があり、方墳だったり円墳だったりします。

 応神天皇陵の遥拝所の位置にある誉田(こんだ)八幡宮です。地味ですが細かい彫刻がある立派な建物です。八幡宮の祭神は応神天皇なので、その天皇の墓のところにあるこの八幡宮が八幡様の総本山でもおかしくないと思うのですが、八幡様の総本山は大分の宇佐神宮だそうです。武神とされていますが具体的に目立った戦績は知られていません。謎の天皇と言っていいでしょう。

 誉田八幡宮から応神天皇陵へ石の橋がかかっています。もちろん一般人は通行禁止です。神官たちはこの橋を渡って天皇陵へ参拝しています。

 応神天皇陵のそばにあった培塚(家来の墓)。住宅地の中にこんな小さな古墳がたくさんあります。左奥に見える森は応神天皇陵です。

 左は仲津山古墳。応神天皇のお妃 仲津姫のお墓です。右は弁恭天皇陵。応神天皇の2代あとの天皇です。この2つの古墳は同じくらいの大きさです。つまり仲津姫は天皇並みの大きさの墓に眠っていることになります。

 

 土師ノ里(はじのさと)駅から古墳が2つ見えます。遠くの大きな古墳は仲津山古墳。手前の小さな円墳はその培塚です。まさに古墳群でした。

 土師ノ里駅から列車で三国ヶ丘駅まで移動し仁徳天皇陵を目指しました。日本最大、世界最大と言われるだけあって桁外れの大きさです。

 ここでボランティア・ガイドの老人と雑談しました。冒頭にお話しした古墳の向きのことですが、海に近い大型古墳は海岸線と並行に向いているそうです。渡来人に日本の国力を見せつけるためです。しかし、小さな古墳の向きはバラバラだそうです。

 ほぼ半日の散策で、歩数は約18000歩でした。