爺の細道 2回目の中山道 東京都内を歩く 

 板橋から日本橋まで約14kmの行程で元気な方なら半日で歩けます。ご紹介するように歴史スポットがたくさんあって気候の良い日の小旅行にはふさわしいかと思います。今回はご覧のように雪解け道を注意して歩きました。

 志村の一里塚

 戸田橋で荒川を渡って東京都に入り国道17号線と旧中山道を分岐したり合流したりしながら進んでいきます。一里塚は街道の両脇に作られました。これが2つとも現存している例はそれほど多くありません。特に東京都内では一里塚が現存するのはここと北区西ヶ原だけだそうです。国道17号を挟んで2つの塚があります。ということは当時の中山道は片道3車線の国道と同じくらいの広い道だったということです。これが信州の山中などに行くと巾2mくらいになってしまいます。

 明治時代に一里塚破壊指令が出たそうで、ここに一里塚が残っていること自体が奇跡です。職務を遂行しなかった当時のお役人に感謝です。地下鉄都営三田線志村坂上駅の真上あたりにあります。

 

 縁切り榎

 板橋宿は中山道の1番目の宿場町です。日本橋から10kmくらいしか無いので、その次の蕨宿まで行くことは可能だったと思われますが、どういうわけか江戸へ向かう旅人も京へ向かう旅人も板橋宿に1泊することがならわしだったそうです。(浅田次郎著 一路より)従って、宿泊客が多くて全長1.7kmもある大きな宿場で遊郭まであったらしい。関東大震災東京大空襲の2度の大破壊でその面影はありません。その板橋宿の北の端にあるパワースポットです。おそらく西へ向かう旅人が長く危険な旅に出る前に知人と別れを惜しんだ場所ではないかと想像しますが、その後 別れたい人に榎の木の皮を煎じて飲ませると別れられるとか、嫁入りの行列はここを避けて遠回りしたとか、いろいろ伝説が付け加えられています。最近は逆転の発想で縁結びの神様ということになっているそうです。

 榎は枯れましたが、今ではコンクリートで固められてご神体になっています。

板橋宿 仲宿

 昔ながらの商店街になっています。本屋もあれば喫茶店もあります。中型のスーパーも何軒かあり、その前に肉屋があったりします。どうやって共存しているのか不思議です。このような商店街自体が将来は文化財になるような気がします。普段高齢者ばかりの住宅地で暮らしているせいか若い人が多いことが印象に残りました。しかし、話している言葉が日本語では無かったりします。

近藤勇の墓

 JR板橋駅東口のすぐ前にあります。実際にここに近藤勇の胴体が埋葬されているらしい。ちなみに首は京に送られて首実検されています。副長土方歳三の墓標もありますが、彼は函館で死んだはずです。いろいろ美化されていますが殺人者テロリスト集団でした。司馬遼太郎は、幕末に一流の人材は皆殺されてしまい二流の人材が明治政府を運営せざるを得なかった。そのことが日露戦争後の満州朝鮮半島での日本の暴走の遠因ではないかと書いています。ここに墓を作ったのはかっては新選組を脱退した永倉新八だそうです。生き残ってしまった彼は青春の記念碑を作ったのではないかと想像しました。

巣鴨の庚申塚

 板橋の商店街は巣鴨の地蔵通り商店街に続いています。その地蔵通りの入り口に庚申塚があり、地名や市電の駅名にもなっています。

 日本古来の神である猿田彦と中国の民間信仰である庚申信仰が合体してしまっています。狛犬の代わりに猿が神社を守っています。民間信仰らしい無邪気さです。ここの説明では猿田彦は銚子の猿田彦神社から移されて合祀されたとあります。神話の神様にはおそらくモデルがいたと思われます。利根川河口付近には香取、鹿島など古代の神様がいました。猿田彦もその近くにいたのでしょう。

 

 巣鴨地蔵通り商店街の2つの地蔵尊

 朝の地蔵通り商店街。この道が中山道です。

 地蔵通り名前の由来となったとげぬき地蔵 高岩寺です。出店が開店の準備中でした。

 地蔵通り商店街の端にあるもう一つの地蔵です。笠をかぶって座っている大きな金属製の像です。江戸時代中期1714年に作られ戦火を免れて300年以上人々の流れを見ていたお地蔵さんです。

 東京大学 弥生キャンパス  巣鴨からしばらく白山通りと呼ばれる国道17号を歩くと東京大学に突き当り右折します。ここは弥生キャンパスと呼ばれて農学部などがあります。

 東大正門。東大生が通学してきます。選ばれた秀才たちのはずです。教師の人に聞くと彼らの目線は主に勉強のできない子供たちに合わせているようです。勉強のできる子どもたちはほっといても勉強ができるのでほったらかしになっています。しかし、社会のため、彼ら自身のためには、勉強のできる子には死ぬほど勉強してもらわなければならないでしょう。そのためのカリキュラムはあるのでしょうか?クイズ王など目指している場合ではないと思うのですが。

 東京大学 赤門 この門は加賀百万石 前田家の江戸屋敷の門でした。

 湯島聖堂神田明神中山道の出入り口を守る門番のように見えます。もう一方の出入口 京都三条大橋の手前には2つの巨大寺院、南禅寺知恩院が両脇を固めています。建築物のスケールから言うと京都の勝ちです。この写真は湯島聖堂です。

 これは神田明神です。祭神は一之宮がオオナムチ、二之宮がスクナヒコで三ノ宮が平将門とされています。元々ここに神社があり、それに大手町の将門塚(平将門首塚として有名)にあった平将門をまつる神社を合祀したということらしい。江戸を守る重要なパワースポットです。

 神田明神の門を守る馬の像。ガラス越しなのでうまく写りませんでした。馬は日本歴史に突如として現れた関東騎馬軍団そして彼らを率いて戦った平将門を象徴していると思われます。

 馬に関係する神社らしくポニーを飼っていました。老馬らしく全く動かず静かにひなたぼっこをしていました。

 中山道を横断して湯島聖堂へ行ってみました。神田明神はお祓いを受けるサラリーマンなど参拝客がたくさんいましたが、ここは静かでした。儒教の寺です。儒教は学問なのか宗教なのかよくわからないところがあります。ここは学校として建てられたそうです。

 絵馬がありました。お願いをする人がいると言うことは宗教なのでしょう。

 屋根を守っている鳳凰らしい像とネコ科の動物の像。やっぱり中国の文化なので見慣れない形です。

 

 江戸時代の湯島聖堂関東大震災でほとんど焼けてしまい、この入徳門と水屋のみ焼け残ったそうです。

 入徳門を守る像はバクではないかと思われます。想像上の動物です。

三越のライオン
 中山道は神田駅のガード下をくぐって日本橋界隈に入ります。真夜中にこのライオン像にまたがって誰にも見られなかったら大学に受かるという伝説がありました。今は東京は眠らない街になっているので、それは不可能でしょう。

日本橋麒麟像と狛犬 観光客が大勢写真を撮っていました。

 

日本道路元標 ここがゴールです。ご苦労様でした。

 いずれもう一度 中山道を歩いてみたいと思っています。次回は全部歩くことにこだわらず今回のように要所要所だけを歩くようにして行程を一日20km程度に抑えてのんびりと旅をするつもりです。しかし、私の性格上「のんびり歩く」のは案外難しいです。今回も昼前には着いてしまいました。
 最後にご注意です。市街地を歩く場合、トイレの場所はあらかじめ確認しておくべきです。Google Mapで「トイレ」は検索できます。郊外、山中はその点気楽です。女性は大変かもしれませんが。