第52回 暖冬

今年の冬は暖冬でした。その証拠が我家のアロエです。例年は下の写真のようになります。特に昨年は霜害がひどくて花は枯れてしまいました。

それが今年は満開です。

 このアロエは30年ほど前に500円で買った鉢植えを軒下に移植してほったらかしです。大きくなりすぎるので毎年 切り詰めていますが、今年はたくさん切らなくてはいけないでしょう。

 こんな年は害虫がたくさん越冬します。害虫発生も早くなると予想されます。一応この庭には1月に樹幹にマシン油乳剤を散布してアブラムシやカイガラムシの卵を退治しました。それでも外からの飛来は防げませんので要注意です。

爺の細道 2回目の中山道 東京都内を歩く 

 板橋から日本橋まで約14kmの行程で元気な方なら半日で歩けます。ご紹介するように歴史スポットがたくさんあって気候の良い日の小旅行にはふさわしいかと思います。今回はご覧のように雪解け道を注意して歩きました。

 志村の一里塚

 戸田橋で荒川を渡って東京都に入り国道17号線と旧中山道を分岐したり合流したりしながら進んでいきます。一里塚は街道の両脇に作られました。これが2つとも現存している例はそれほど多くありません。特に東京都内では一里塚が現存するのはここと北区西ヶ原だけだそうです。国道17号を挟んで2つの塚があります。ということは当時の中山道は片道3車線の国道と同じくらいの広い道だったということです。これが信州の山中などに行くと巾2mくらいになってしまいます。

 明治時代に一里塚破壊指令が出たそうで、ここに一里塚が残っていること自体が奇跡です。職務を遂行しなかった当時のお役人に感謝です。地下鉄都営三田線志村坂上駅の真上あたりにあります。

 

 縁切り榎

 板橋宿は中山道の1番目の宿場町です。日本橋から10kmくらいしか無いので、その次の蕨宿まで行くことは可能だったと思われますが、どういうわけか江戸へ向かう旅人も京へ向かう旅人も板橋宿に1泊することがならわしだったそうです。(浅田次郎著 一路より)従って、宿泊客が多くて全長1.7kmもある大きな宿場で遊郭まであったらしい。関東大震災東京大空襲の2度の大破壊でその面影はありません。その板橋宿の北の端にあるパワースポットです。おそらく西へ向かう旅人が長く危険な旅に出る前に知人と別れを惜しんだ場所ではないかと想像しますが、その後 別れたい人に榎の木の皮を煎じて飲ませると別れられるとか、嫁入りの行列はここを避けて遠回りしたとか、いろいろ伝説が付け加えられています。最近は逆転の発想で縁結びの神様ということになっているそうです。

 榎は枯れましたが、今ではコンクリートで固められてご神体になっています。

板橋宿 仲宿

 昔ながらの商店街になっています。本屋もあれば喫茶店もあります。中型のスーパーも何軒かあり、その前に肉屋があったりします。どうやって共存しているのか不思議です。このような商店街自体が将来は文化財になるような気がします。普段高齢者ばかりの住宅地で暮らしているせいか若い人が多いことが印象に残りました。しかし、話している言葉が日本語では無かったりします。

近藤勇の墓

 JR板橋駅東口のすぐ前にあります。実際にここに近藤勇の胴体が埋葬されているらしい。ちなみに首は京に送られて首実検されています。副長土方歳三の墓標もありますが、彼は函館で死んだはずです。いろいろ美化されていますが殺人者テロリスト集団でした。司馬遼太郎は、幕末に一流の人材は皆殺されてしまい二流の人材が明治政府を運営せざるを得なかった。そのことが日露戦争後の満州朝鮮半島での日本の暴走の遠因ではないかと書いています。ここに墓を作ったのはかっては新選組を脱退した永倉新八だそうです。生き残ってしまった彼は青春の記念碑を作ったのではないかと想像しました。

巣鴨の庚申塚

 板橋の商店街は巣鴨の地蔵通り商店街に続いています。その地蔵通りの入り口に庚申塚があり、地名や市電の駅名にもなっています。

 日本古来の神である猿田彦と中国の民間信仰である庚申信仰が合体してしまっています。狛犬の代わりに猿が神社を守っています。民間信仰らしい無邪気さです。ここの説明では猿田彦は銚子の猿田彦神社から移されて合祀されたとあります。神話の神様にはおそらくモデルがいたと思われます。利根川河口付近には香取、鹿島など古代の神様がいました。猿田彦もその近くにいたのでしょう。

 

 巣鴨地蔵通り商店街の2つの地蔵尊

 朝の地蔵通り商店街。この道が中山道です。

 地蔵通り名前の由来となったとげぬき地蔵 高岩寺です。出店が開店の準備中でした。

 地蔵通り商店街の端にあるもう一つの地蔵です。笠をかぶって座っている大きな金属製の像です。江戸時代中期1714年に作られ戦火を免れて300年以上人々の流れを見ていたお地蔵さんです。

 東京大学 弥生キャンパス  巣鴨からしばらく白山通りと呼ばれる国道17号を歩くと東京大学に突き当り右折します。ここは弥生キャンパスと呼ばれて農学部などがあります。

 東大正門。東大生が通学してきます。選ばれた秀才たちのはずです。教師の人に聞くと彼らの目線は主に勉強のできない子供たちに合わせているようです。勉強のできる子どもたちはほっといても勉強ができるのでほったらかしになっています。しかし、社会のため、彼ら自身のためには、勉強のできる子には死ぬほど勉強してもらわなければならないでしょう。そのためのカリキュラムはあるのでしょうか?クイズ王など目指している場合ではないと思うのですが。

 東京大学 赤門 この門は加賀百万石 前田家の江戸屋敷の門でした。

 湯島聖堂神田明神中山道の出入り口を守る門番のように見えます。もう一方の出入口 京都三条大橋の手前には2つの巨大寺院、南禅寺知恩院が両脇を固めています。建築物のスケールから言うと京都の勝ちです。この写真は湯島聖堂です。

 これは神田明神です。祭神は一之宮がオオナムチ、二之宮がスクナヒコで三ノ宮が平将門とされています。元々ここに神社があり、それに大手町の将門塚(平将門首塚として有名)にあった平将門をまつる神社を合祀したということらしい。江戸を守る重要なパワースポットです。

 神田明神の門を守る馬の像。ガラス越しなのでうまく写りませんでした。馬は日本歴史に突如として現れた関東騎馬軍団そして彼らを率いて戦った平将門を象徴していると思われます。

 馬に関係する神社らしくポニーを飼っていました。老馬らしく全く動かず静かにひなたぼっこをしていました。

 中山道を横断して湯島聖堂へ行ってみました。神田明神はお祓いを受けるサラリーマンなど参拝客がたくさんいましたが、ここは静かでした。儒教の寺です。儒教は学問なのか宗教なのかよくわからないところがあります。ここは学校として建てられたそうです。

 絵馬がありました。お願いをする人がいると言うことは宗教なのでしょう。

 屋根を守っている鳳凰らしい像とネコ科の動物の像。やっぱり中国の文化なので見慣れない形です。

 

 江戸時代の湯島聖堂関東大震災でほとんど焼けてしまい、この入徳門と水屋のみ焼け残ったそうです。

 入徳門を守る像はバクではないかと思われます。想像上の動物です。

三越のライオン
 中山道は神田駅のガード下をくぐって日本橋界隈に入ります。真夜中にこのライオン像にまたがって誰にも見られなかったら大学に受かるという伝説がありました。今は東京は眠らない街になっているので、それは不可能でしょう。

日本橋麒麟像と狛犬 観光客が大勢写真を撮っていました。

 

日本道路元標 ここがゴールです。ご苦労様でした。

 いずれもう一度 中山道を歩いてみたいと思っています。次回は全部歩くことにこだわらず今回のように要所要所だけを歩くようにして行程を一日20km程度に抑えてのんびりと旅をするつもりです。しかし、私の性格上「のんびり歩く」のは案外難しいです。今回も昼前には着いてしまいました。
 最後にご注意です。市街地を歩く場合、トイレの場所はあらかじめ確認しておくべきです。Google Mapで「トイレ」は検索できます。郊外、山中はその点気楽です。女性は大変かもしれませんが。



 

 

うちの猫はこたつで丸くなりません。

 大雪の日、雷まで鳴って猫にとっては最悪の日のはずでした。うちの猫は避妊した雌猫でもう9歳になります。元々野良だったので野生の本能が残っているらしく、水に弱いくせに雨の日でも雪の日でも外に出たがります。なぜなら、雨や雪の方が鳥やネズミを捕獲できる可能性が高くなるらしいのです。という訳で外に出さないようにしていたのですが、ちょっと出入りした瞬間、ドアの隙間から飛び出してしまい 一晩帰って来ませんでした。凍死されたら困ると心配しましたが、平気な顔で帰って来ました。

 サハラ砂漠にいたリビア砂漠ネコが猫の祖先で、それをエジプト人が飼いならしたそうです。従って猫は水を嫌います。しかし、砂漠でも夜はかなり寒くなるそうなので寒さには強いようです。

 下の写真は夜の猫と昼の猫です。同じ猫とは思えないほど猫相が変わります。

 もう心配かけるなよ。

 

番外 49年前の手配写真

 49年間逃げ続けた指名手配犯が最近見つかったと報道されています。彼は私の一つ年下です。この写真は私の50年前です。今とは人相が変わっているので、この写真から個人を特定するのは難しいでしょう。

 今思えばこの頃の私は、田舎から札幌と言う都会に一人で出てきて、軽くウツ状態だったと思います。今でも大学時代の夢を見ますが、授業がさっぱりわからないとか、カリキュラムの申込を忘れていて授業に出られず1日中何もすることがないとか、そんな悪夢ばかりです。実際の状況はこれほどひどくはありませんでしたが、1日中何もしないで天井を見続けた日はありました。

 しかし、こんな写真を撮ってくれるくらいの友人はいたわけです。それが誰だが思い出せません。

 ひょっとしたらあの逃亡者も末期がんの病床で悪夢を見続けていたのかもしれません。今朝死亡したとのニュースを見ました。

自治会長になってしまった 第11回 どうやったら伝わるのだろう

 自治会が会員に情報を伝える手段は3つあります。掲示板、回覧板、全戸チラシ配布です。掲示板はほとんど見られていないでしょう。しかし、常に新しい情報に張り替えていれば自治会は頑張っているねと言うアピールにはなると思ってマメに管理しています。回覧板は全世帯に回りますが、見ないで次に回す人が多いでしょう。全戸チラシ配布が最も見てくれる可能性が高いはずですが、それでも見ない人は見ない。今期はこのチラシ配布が増えたので紙代と印刷代(公民館の転写機を使うので安価です)で予算オーバーしました。

 将来は自治会でホームページを作るとかメールマガジンSNSで情報伝達する時代が来るかもしれません。実は来ないかもしれないと思っています。現在の自治会役員会でメールやSNSが通じる人は約半分です。従って、役員への連絡は相変わらず文通です。

 一方では情報が伝わらないことにうんざりして口コミに戻った人たちもいます。映画観賞会や音楽会が私の知らないところで開かれていました。もちろん、私が全てを知る必要は無いのでやっていけないことではありません。

 その口コミも最近は伝わりにくくなっています。昔は学校のPTAとか幼稚園の通園バスが出た後の奥様方の立ち話とかが口コミ・ネットワークを作っていました。子供の数が減ってしまったので、その口コミ・ネットワークも縮小してほとんど存在しないのと同じになってしまいました。怖い話ですが、どこかで孤独な老人が危険な状態になっても誰にもわかりません。幼稚園バスが減ってデイサービスの車が走り回っていますが、これは口コミの拠点にはならないようです。(写真はインターネットから採取)デイサービスセンター寿光園-社会福祉法人寿光会|八尾市

 現役時代後期に一時 マーケティング部にいたので広告宣伝の苦労はわかっているつもりです。ほとんどの人はチラシなど見てくれません。どうやったら振り向いてもらえるか、どうやったらメッセージが伝わるのか。テレビを見てもCMを作っている人の苦労が見えてしまいます。その感覚を自治会の情報伝達にも応用したので、だいぶ変わったねと言われることもあります。見てくれる人は見てくれています。

爺の細道 2回目の中山道 関東平野の市街地を歩く

 中山道関東平野部分 高崎~大宮間を歩きました。ほとんど市街地なので面白くありません。私は以下の理由で意地で歩きましたが、歩き旅のビギナーの方にはお勧めしません。興味ない方は飛ばしてください。

 引退直後の2018年の冬に日本橋を出発して中山道を歩き始めました。私の最初の旧街道歩き旅でした。ところが、1日目は何とか歩き切ったものの2日目の朝 足が腫れあがって靴が履けません。舗装道路の上を3万歩も続けて歩くと足の裏にダメージが蓄積します。何とか足を靴に押し込んで歩き始めましたが、腫れた足の裏が水ぶくれになり、それが潰れて一歩一歩が激痛という地獄のような旅になりました。中山道は高崎まではJRとほぼ平行しています。我慢できずにところどころで列車に乗ってしまいました。つまりこの日本橋~高崎間は歩き切っていないのです。

 なお、この足の水ぶくれは1週間ほどで治り、その後はできにくくなります。テニスやギターを始めると最初は指に水ぶくれができますが、やがてできなくなるのと同じです。

 そこで歩き旅にもだいぶ慣れたので、中山道日本橋~高崎間をもう一度意地で歩くことにして今度は高崎駅を出発して歩き始めました。

 ところが慣れたはずでしたが、11月に若干歩き旅(四国お遍路と高野山参拝)を行ってから12月に油断してトレーニングをさぼったことが災いして、再び足の裏に水ぶくれが発生。またまた地獄のような旅になってしまいました。

 1日目 高崎~深谷 Google Mapのルート探索では32km 徒歩7時間21分。私の歩数計では39km 46000歩 高崎駅出発 7:15 深谷駅到着 16:00 8時間45分。これがやりすぎで、20kmくらいに止めておけばよかったとその後すごく反省しました。年寄りの冷や水の典型。なお、このようにGoogle Mapの表示はやや少なめに出ます。車の旅であれば10km程度の誤差はたいしたことありませんが、歩き旅で10kmは大きな違いです。

 この区間は歴史の痕跡は多くありません。写真は高崎の次の倉賀野宿に残る宿屋の建物です。

 背景は榛名山。こう見ると景色の良いところに思われるかもしれませんが、実際は排気ガスの渦の中を前から後ろから音もなく走ってくる自転車を避けながら痛む足を引きづりながら歩いていました。

 今日のゴールの深谷駅。立派な駅舎です。渋沢栄一の出身地ですが、この駅舎とはたぶん関係ないでしょう。

 ここから列車で本庄まで戻って宿泊。

2日目 深谷鴻巣 Google Mapの表示は26.2km 6時間12分。私の歩数計は31km 37000歩 深谷駅出発 7:45 鴻巣到着 15:30 7時間45分 朝の本庄~深谷は列車移動です。

 中山道旧道です。特に変わったところはありませんが、なぜか曲がりくねっていてまっすぐなところがほとんどない。旧街道に共通する特徴です。こんなところをただ歩くだけです。 

 あまり一般的に使われていませんが走禅という言葉があります。座るのではなく走って禅をする。無念無想で走るということでしょうか。それなら歩禅と言う言葉はあってもいいと思います。ただし、車と自転車には気をつけなければいけないし、道を間違えてはいけないので頭は結構忙しくて無念無想ではありません。

 熊谷を過ぎたあたり荒川の堤防近くに権八地蔵と言う石仏が2体あります。この説話は面白くて、人を殺して関東まで逃げてきた鳥取藩の侍 平井権八が ここで商人を殺し金を取った。近くの地蔵がそれを見ていたように感じた権八が「このことは誰にも言うな」と地蔵に言ったところ地蔵が「我は言わぬが汝は言うな」と口をきいた。結局 権八は捕まり獄門にさらされたそうです。物言い地蔵と言われています。左は久下権八地蔵、右が権八地蔵です。どちらがその口をきいた地蔵かはわかりません。

 

 鴻巣の鎮守 鴻神社。3つの神社が合併してできた神社だそうで、祭神がはっきりしません。

 鴻巣から熊谷まで列車で戻って宿泊。熊谷は駅ビルとその周辺にホテルや食堂が集中しているので旅人には便利でした。

3日目 鴻巣~大宮 Google Mapの表示は20.8km  徒歩4時間49分。私の歩数計は25km 30000歩 鴻巣出発 6:15 大宮到着 11:30 5時間15分。この程度の距離は体調万全なら楽勝ですが、足が痛いので大変でした。

 この区間はほぼまっすぐで道が広くて歩道がしっかりしていて、その点では歩きやすかった。しかし、水はけのためにどうしても両端が少し上がっていて斜面を横切るように歩き続けることになります。そのわずかな傾斜が足の裏の水ぶくれにはこたえます。

 大宮の手前にあったお堂。猿田彦大神と書いてあるが像の形を見ると馬頭観音ではないかと思います。しかし、猿田彦古事記の中では国津神(日本土着の神)でありながら天津神高天原から来たアマテラスを中心とする神々。天皇の祖先神)の道案内をした謎の神であり、このような人間離れした姿として表現された可能性もあります。この旅では歴史の痕跡との出会いが非常に少なかったが、ところどころこのように興味を引く場所もありました。

 高崎~大宮間 95kmを3日かけて完歩できました。

 こんな苦しい思いをしてなぜ歩くのか、歩きながら考えていました。ヒトは嫌なことは忘れたいと思います。すると本当に忘れてしまうのだそうです。昔は良かったという人はたいていの場合嫌なことを忘れただけです。歩き旅は足、腰、肩の痛みとの闘いです。時間が経つとその痛みを忘れて良かったことだけを思い出すようになって、また旅に出たくなるのでしょう。

 帰宅して3日たち足の痛みも引いたので、もう懲りずに大宮から日本橋まで歩く予定を立てています。たぶん、ここまで足が痛いことはないでしょう。