2年前のブログの再放送 第2回 群生型生物

2022-03-09

第2回 群生型生物

ファーストコンタクト 地球外知的生命体

 庭いじりをしていたら降ってきた妄想はまだまだ続きます。

 ある日、巨大な宇宙船が地球を周回する軌道に乗った。地球人の前に現れた宇宙人は地球の生物とはかなり違っているので、これを理解しないと彼らと地球人の間で起こったドタバタ劇もわかりにくくなる。ここでは宇宙人について説明しよう。一言で言うとこの宇宙人は群れとして生存していて、記憶を共有することができる生物だった。地球人は後に彼らを群生型生物と名付けた。

 当初 来訪した宇宙人は3種類あると思われた。ところが彼らは実は1つの個体の分身だったのだ。言わば宇宙人の一人一人は偽個体とも言うべきなのだが、ここでは簡便に個体とする。この他に姿を見せない個体が2種類あるようだ。

(注:これら画像には著作権があります。厳密には使用不可です。)

 ノッコ型個体 身長1m コケシかマトリョーシカを思わせるずんぐりした胴体に指を6本持つ腕が2本と足が2本ある。しかし、個体によっては腕が3本とか足が3本とか4本のものも観察されており、変異はルーズらしい。頭部に大きな目が2つある。口や鼻は見当たらない。実は後に頭頂部に口があることがわかった。最も個体数が多く当初は労働者階級と見なされた。 

 ガンギ型個体 身長2m 体は細く外皮が硬そうで、2本の長い腕と4本の足を持つ。小さな3角形の頭に2つの目があり、その姿はカマキリを連想させる。彼らが現れるときにはガンギ型1~2体にノッコ型5~6体がグループを作ることが多い。管理職階級と見なされた。

 メロル型個体 直径1.5mのイソギンチャクのような生物で多数の触手がある。ゆっくりと移動することはできるが、普段はお神輿のような座席に乗ってガンギ4体に担がれて移動する。地球人との会議や情報伝達の席に現れる。ノッコとガンギは音声でコミュニケーションを取ることができ、地球人とも会話できるが、メロルは音声は出せない。体のほとんどが神経細胞で出来ていて記憶と思考を担当する知識階級と見なされた。 

 スラッシュ型個体 危険が迫ったときにのみ現れる戦闘を専門とする個体である。高速で動くことができる。地球人の前に現れなかったとされているが、実は登場はしたが動きが速すぎて地球人には認識できなかったのではないかと言われている。その姿は秘密である。

 ドラゴ 体長10mを越える巨大なヒトデのような生物。これが群生型生物の本体である。彼らが地球人に見せた母星の映像には、ドラゴの体からノッコやガンギやメロルが次々と生み出されるところが写されていた。また、一度生み出された個体もドラゴと接触しその体内に埋め込まれて行く姿もあった。つまり、ノッコなどの個体はドラゴから産み出され、たびたびドラゴと接触することにより記憶を交換していると思われる。ドラゴは船から降りることはなく、地球人の前に姿を現すことはなかった

 これらの個体をまとめて、この宇宙人をマルコ人と呼ぶことにする。マルコ人は基本的には地球上の生物に似ていた。つまり、生存には水と酸素を必要とし有機物を摂取する。体の主成分は蛋白質であり、音を聞き、光を見ることができた。ただし、宇宙船内の大気の組成は地球とほぼ同じであるが気圧が半分しかないとか、赤外線を見ることができるとか、体温が約20℃であるとか、省エネに対応できるようになっていた。

 

 マルコ人の注目すべき特質を挙げてみると
1,個体は死ぬことやけがをすることを恐れない。
 マルコ人は記憶を共有するので、群れ全体で一つの個体である。従って、ノッコやガンギは人間に例えれば髪の毛とか爪の先のようなものなのだ。当初 彼らは全くためらわず地球人の宇宙ステーションに入ってきて、機械をいじろうとした。そのため感電したりロケットの噴射口に首を突っ込んで何体か死亡した。学習能力はあるので同じ事故を繰り返すことはないが、無鉄砲な行動はその後も続けられた。

2,活動時間は約6時間。3~4時間の休憩が必要。
 各個体は頻繁にドラゴと接触して記憶を放出し整理する必要があるらしい。地球生物の睡眠に相当する活動である。ちなみにマルコ人は極端に長寿なので獲得する記憶が膨大になる。すべての記憶を貯め込むことはできないので、記憶の整理は頻繁に行われていて、不要な記憶は躊躇なく捨てているらしい。そして共有すべき情報はドラゴが選択して各個体と共有している。

3、基本的にとても友好的である。
 なぜなら記憶を共有できるので、相手に苦痛を与えると、その苦痛を後で共有しなければならなくなるからである。マルコ人は地球人のことを慎重に時間をかけて学習したが、地球人が互いに殺し合い、場合によっては一つの民族を根絶やしにすることもあることは、彼らにとってはなかなか理解できないことだったらしい。ファーストコンタクトの初期にはマルコ人はとてもオープンに地球人と色々な情報を共有するスタンスだったのだが、次第に慎重になったのは、地球人に対する理解の進み具合が影響していたと考えられた。そしてついに地球を去ることになったのは、地球人は他の部族と平和的に共存できないと結論したためと推測できる。相手に与える苦痛を共感できるようになれば地球人ももっと平和的な種族になるのだろうが、残念ながら生物としての人類の特質はそうなっていない。

  マルコ人は周回軌道に到達してから2年間をファーストコンタクトの準備に費やした。次回はコンタクトです。続けてUPします。

2年前のブログの再放送 百万年の船

 2年ほど前に別ブログを立ち上げて書いたものです。思いつきとしては面白いと私は喜んでいるのですが、ほとんどアクセスがありませんでした。この「サクランボの種.....」もやっとボチボチ読んでくれる人が出てきたので、ちょっと再放送してみます。なんとこの調子で5回も続きます。

 

2022-02-20

第1回 岩の船の接近

ファーストコンタクト 恒星間飛行

  庭の草取りや木々の剪定をしていると手は動いていても頭は比較的暇です。そんな時いろいろなアイデアや夢想が湧いてきます。突然ですが地球外生命体とのファーストコンタクトの可能性について考えてみたいと思います。なぜならアイデアが降ってきてしまったからです。

 (注:この写真はアンドロメダ星雲です。)

 銀河系には2000億個以上の星があるそうである。これだけあるのだから太陽と同じような星もあるはずだし、地球のような惑星もあるはずだし、生命が生まれた惑星もあるはずだ。その中から知性を持つ生命が誕生することも確率は低くても、これだけ星があるのなら可能性はあるはずである。ところが、彼らと地球の人類が出会う可能性はと言うと、彼らが住む星と地球との距離が問題になってくる。光より速い速度は存在しないことを相対性理論は示している。SFの世界ではワープとかハイパースペース航法とかドコデモドアを使って距離の問題を解決してしまうが、私の理科の知識によるとそんなことは実現できない。光の速度は超えられないのだ。そうなると、仮に宇宙人がいたとして、現在の地球の科学力では考えられないほどのスピードで飛ぶ宇宙船を開発できたとしても、地球に到達するには何万年もかかることになる。つまり地球に飛来できる宇宙人はとてつもなく長い寿命と数万年の静寂と孤独に耐えるメンタルな強さを持っている必要がある。それでも、これだけの星があるのだから、地球に到達できる宇宙人が存在する可能性はあるはずだ。そしてついにある日 宇宙人が乗った船が地球に接近してきた。 

 注:岩の船の外見はこんな感じでしょう。なお、これはWEB採取した小惑星の想像図です。

 その船の外見は直径10kmの岩の塊だった。高速で飛ぶ船にとって宇宙空間に浮かぶ物質は小石のように小さな物であっても非常に危険である。ある程度大きな物体は察知して破壊することが出来るのでむしろ小さな物体の方が危険と言うことも出来よう。そのため船は厚さ2kmもの岩の鎧をまとっていた。しかも10万年の旅の中で宇宙空間のチリを吸収して船は不規則な形に成長していた。

 船は推力を岩の鎧の一部を核融合反応のエネルギーで高温のプラズマに変えて噴射することで得ている。プラズマは高速で噴射されるので少ない質量で大きな推力を得ることができる。噴射は断続的で約0.5秒間隔だった。ここではパルスジェットと呼んでおこう。さらに船は帆を持っていた。この帆は太陽光線を利用して発電すると共に太陽からの粒子の流れである太陽風を受けて減速する機能を持っていた。太陽系に近づくと宇宙人たちは船外作業を開始した。彼らは岩の鎧の一部を削り取り、帆を揚げる準備をした。船は向きを180度回転させ逆噴射を開始した。パルスジェットは強烈な光を発する。それは地球からも観察できた。天文学者たちは突然現れた宇宙の異変に望遠鏡を向け、船がゆっくりと帆を揚げるところを目撃した。その姿は地球の多くの人々にとって精神の根幹を揺るがすものだった。その帆は十字架の形をしていたのだ。 

 (注:この画像の著作権は未確認です。)

 船の軌道はまっすぐに太陽に向かっていた。宇宙から来た巨大な十字架が太陽に突入する。このことは様々な宗教的論争を引き起こした。しかし、多くの人々は楽観的だった。神は奇跡を起こすはずだった。その予想は当たって、船は軌道を変えて水星と金星の間で太陽を回る軌道に乗った。この軌道変更は慣性飛行ではありえない動きだったので、人類はこの船は意志を持つ何者かにより操縦されていることを確信した。そして、初めて地球外から来た知的生命体と出会うことを予想した。船は太陽のエネルギーを吸収して、その機能を回復させた。いつ終わるかわからない旅の中で船は最小限の機能を残して休眠していたのだ。3周回った後 船は再びパルスジェットをふかして、多くの人々の予想通り、今度はまっすぐに地球に向かってきた。直径10kmの岩の塊が地球に衝突したらどうなるか、物理学者達の予測は人類が恐竜と同様に絶滅するだろうということだったが、ここでも多くの人は楽観的であった。特に十字架の形を重視する人たちは歓喜の興奮をもって船を迎えようとしていた。

 人々の期待した通り船は再び軌道を修正し地球を周回する軌道に乗った。その姿は小さな望遠鏡でも観察できた。それから2か月ほど何事も起こらないように見えた。やがて人類は人工衛星との連絡が次々と途絶えたことに気が付いた。船が人工衛星を吸収していたのだ。次に地球上のコンピューターが片っ端からハッキングされ始めた。そして岩の船が宇宙ステーションISSに接近し始めた時、地球上は大騒ぎになった。宇宙飛行士を宇宙人に会わせようとの提案もあったが、リスクが高すぎると判断し、宇宙飛行士は大急ぎで地球に帰還することになった。宇宙飛行士たちは帰還するシャトルの中から、岩の船が入口を開けてISSを飲み込んでいくところをまじかで観察することになった。あまりにもタイミングが良かったので、宇宙人は宇宙飛行士が退避するのを待っていたと解釈された。

 無人ISSは岩の船の中を探るべくカメラとセンサーを忙しく動かした。地球との通信は妨害されず遠隔操作は可能だった。船の中は暗闇だった。後でわかったことだが、宇宙人は赤外線を見ることができる種族だった。空気は0.5気圧だったが、成分は窒素と酸素の混合で地球とほぼ同じだった。マイクが音を拾ったので何か動く物が多数 宇宙ステーションを取り巻いていることがわかった。地球からの操作で宇宙ステーションのドアが開いた。彼らが船内に入って来た時、人類はようやく宇宙人の姿を見ることになった。驚いたことに宇宙人たちは全く躊躇せずに宇宙ステーションに入って来てそこら中の設備に触りだした。高圧電流に触れて卒倒するものがいたり、外部で噴射孔をのぞき込んでいるものがいるのにロケットを噴射させて焼死するものがいたり大騒ぎになった。6時間ほどの狂乱の視察の後、宇宙人達は一斉に待避し、その後4時間ほどの静寂があった。そして、また集団がやってきて大騒ぎがあって、静寂があって、と3回ほど繰り返した後、宇宙人達はコンピューター部分を取り外して持ち出した。それから1ヶ月ほどは何も起こらなかった。その間に地球人は宇宙人に対するメッセージとして地球と人類を紹介する動画を作った。再び宇宙人の集団がISSに入って来たとき、ISSのスクリーンにそのメッセージを放映した。宇宙人達は興味を持ったようでスクリーンに群がった。ある部分で彼らは「one more time」と英語ではっきりと言った。地球の司令部は宇宙人が英語をしゃべったことで大騒ぎになった。地球の司令部はその部分の映像を繰り返した。それは南太平洋の海中の映像であり、宇宙人が興味を示したのは珊瑚だった。

 この話は調子良く進みますが、実は困ったことがあります。地球と周回軌道にある岩の船を往復する手段が思いつかない(アイデアが降ってこない)のです。わずかな物資を周回軌道に持ち上げるためにいちいちあの大げさな巨大ロケットを使わなければならないのでは効率が悪すぎます。SFにある反重力エンジンがあれば良いのですが、一応 私の理科の知識で妥当と思われる科学技術だけで話を組み立てる方針ですので使えません。宇宙エレベーターを建設するには資材も時間も途方もなくかかりそうでこの話の枠の中には収まりそうもない。というわけで以後の話の中でボートがひらひらと飛び回って岩の船と地球を往復しますが、そのメカニズムは説明できません。

 次回はこの船に乗ってきた宇宙人について解説します。また来週。

 

自治会長になってしまった 第12回 任期もあと1か月

 決算・予算、総会資料の作成、引継ぎ資料の作成で頭の中は大忙しです。9年前にも自治会役員をやっていて総務担当として総会資料を編集しましたが、その時はそんなに苦労したような記憶が無い。能力が落ちています。

 昔はいろんなことを並行して処理で来ていましたが、70過ぎると視野が狭くなって頭の中のチャンネルが少なくなります。これを実感できなくなったら「第3者的に自分を見る」とか「昔の自分と比べて見る」と言うチャンネルが無くなったことになります。実感できるだけまだマシのはずと自分を慰めています。

 何かしら新しいことをやろうとするのが面倒を起こす原因かもしれません。去年の資料の丸写しでもいいのに独自性を出そうとするから大変になっています。少しでもわかりやすくしようとしてかえってわかりにくくなっているとか。これは性格だからしょうがない。

 会長としてマニフェストが2つありました。

自治会の仕事を簡素化し、役員の仕事を減らす。そうでもしないと役員のなり手が無くなる。

自治会費を少しでも値下げする。そうしないと自治会に入会しない人が出てくる。

 これらは時々発言してきましたが、マニフェストとして発表するようなことはしていません。しなくて良かったのです。①の仕事の簡素化はできず、逆に仕事を増やしてしまいました。今までの自治会が放置してきた空家問題とかゴミ収集ステーションの管理問題に着手したからです。②の自治会費値下げはできませんでした。防災用備品の購入とか集会所の老朽化対策を始めたからです。能登半島の状況を見ると防災にはもっとしっかり取り組まないとまずいと思います。しかし、お金が無いので少しずつしかできません。

 やっと総会資料の原稿を印刷屋に出しましたので、ブログを書く余裕ができました。次は引継ぎ資料と3月末締め切りの各種補助金の市役所への申請作業があります。

 会長の仕事量は現役時代の1/10くらいでしょう。しかし、結構ストレスがあります。これが刺激になって認知症になるのが3~4年遅れたかもしれません。

 

第52回 暖冬

今年の冬は暖冬でした。その証拠が我家のアロエです。例年は下の写真のようになります。特に昨年は霜害がひどくて花は枯れてしまいました。

それが今年は満開です。

 このアロエは30年ほど前に500円で買った鉢植えを軒下に移植してほったらかしです。大きくなりすぎるので毎年 切り詰めていますが、今年はたくさん切らなくてはいけないでしょう。

 こんな年は害虫がたくさん越冬します。害虫発生も早くなると予想されます。一応この庭には1月に樹幹にマシン油乳剤を散布してアブラムシやカイガラムシの卵を退治しました。それでも外からの飛来は防げませんので要注意です。

爺の細道 2回目の中山道 東京都内を歩く 

 板橋から日本橋まで約14kmの行程で元気な方なら半日で歩けます。ご紹介するように歴史スポットがたくさんあって気候の良い日の小旅行にはふさわしいかと思います。今回はご覧のように雪解け道を注意して歩きました。

 志村の一里塚

 戸田橋で荒川を渡って東京都に入り国道17号線と旧中山道を分岐したり合流したりしながら進んでいきます。一里塚は街道の両脇に作られました。これが2つとも現存している例はそれほど多くありません。特に東京都内では一里塚が現存するのはここと北区西ヶ原だけだそうです。国道17号を挟んで2つの塚があります。ということは当時の中山道は片道3車線の国道と同じくらいの広い道だったということです。これが信州の山中などに行くと巾2mくらいになってしまいます。

 明治時代に一里塚破壊指令が出たそうで、ここに一里塚が残っていること自体が奇跡です。職務を遂行しなかった当時のお役人に感謝です。地下鉄都営三田線志村坂上駅の真上あたりにあります。

 

 縁切り榎

 板橋宿は中山道の1番目の宿場町です。日本橋から10kmくらいしか無いので、その次の蕨宿まで行くことは可能だったと思われますが、どういうわけか江戸へ向かう旅人も京へ向かう旅人も板橋宿に1泊することがならわしだったそうです。(浅田次郎著 一路より)従って、宿泊客が多くて全長1.7kmもある大きな宿場で遊郭まであったらしい。関東大震災東京大空襲の2度の大破壊でその面影はありません。その板橋宿の北の端にあるパワースポットです。おそらく西へ向かう旅人が長く危険な旅に出る前に知人と別れを惜しんだ場所ではないかと想像しますが、その後 別れたい人に榎の木の皮を煎じて飲ませると別れられるとか、嫁入りの行列はここを避けて遠回りしたとか、いろいろ伝説が付け加えられています。最近は逆転の発想で縁結びの神様ということになっているそうです。

 榎は枯れましたが、今ではコンクリートで固められてご神体になっています。

板橋宿 仲宿

 昔ながらの商店街になっています。本屋もあれば喫茶店もあります。中型のスーパーも何軒かあり、その前に肉屋があったりします。どうやって共存しているのか不思議です。このような商店街自体が将来は文化財になるような気がします。普段高齢者ばかりの住宅地で暮らしているせいか若い人が多いことが印象に残りました。しかし、話している言葉が日本語では無かったりします。

近藤勇の墓

 JR板橋駅東口のすぐ前にあります。実際にここに近藤勇の胴体が埋葬されているらしい。ちなみに首は京に送られて首実検されています。副長土方歳三の墓標もありますが、彼は函館で死んだはずです。いろいろ美化されていますが殺人者テロリスト集団でした。司馬遼太郎は、幕末に一流の人材は皆殺されてしまい二流の人材が明治政府を運営せざるを得なかった。そのことが日露戦争後の満州朝鮮半島での日本の暴走の遠因ではないかと書いています。ここに墓を作ったのはかっては新選組を脱退した永倉新八だそうです。生き残ってしまった彼は青春の記念碑を作ったのではないかと想像しました。

巣鴨の庚申塚

 板橋の商店街は巣鴨の地蔵通り商店街に続いています。その地蔵通りの入り口に庚申塚があり、地名や市電の駅名にもなっています。

 日本古来の神である猿田彦と中国の民間信仰である庚申信仰が合体してしまっています。狛犬の代わりに猿が神社を守っています。民間信仰らしい無邪気さです。ここの説明では猿田彦は銚子の猿田彦神社から移されて合祀されたとあります。神話の神様にはおそらくモデルがいたと思われます。利根川河口付近には香取、鹿島など古代の神様がいました。猿田彦もその近くにいたのでしょう。

 

 巣鴨地蔵通り商店街の2つの地蔵尊

 朝の地蔵通り商店街。この道が中山道です。

 地蔵通り名前の由来となったとげぬき地蔵 高岩寺です。出店が開店の準備中でした。

 地蔵通り商店街の端にあるもう一つの地蔵です。笠をかぶって座っている大きな金属製の像です。江戸時代中期1714年に作られ戦火を免れて300年以上人々の流れを見ていたお地蔵さんです。

 東京大学 弥生キャンパス  巣鴨からしばらく白山通りと呼ばれる国道17号を歩くと東京大学に突き当り右折します。ここは弥生キャンパスと呼ばれて農学部などがあります。

 東大正門。東大生が通学してきます。選ばれた秀才たちのはずです。教師の人に聞くと彼らの目線は主に勉強のできない子供たちに合わせているようです。勉強のできる子どもたちはほっといても勉強ができるのでほったらかしになっています。しかし、社会のため、彼ら自身のためには、勉強のできる子には死ぬほど勉強してもらわなければならないでしょう。そのためのカリキュラムはあるのでしょうか?クイズ王など目指している場合ではないと思うのですが。

 東京大学 赤門 この門は加賀百万石 前田家の江戸屋敷の門でした。

 湯島聖堂神田明神中山道の出入り口を守る門番のように見えます。もう一方の出入口 京都三条大橋の手前には2つの巨大寺院、南禅寺知恩院が両脇を固めています。建築物のスケールから言うと京都の勝ちです。この写真は湯島聖堂です。

 これは神田明神です。祭神は一之宮がオオナムチ、二之宮がスクナヒコで三ノ宮が平将門とされています。元々ここに神社があり、それに大手町の将門塚(平将門首塚として有名)にあった平将門をまつる神社を合祀したということらしい。江戸を守る重要なパワースポットです。

 神田明神の門を守る馬の像。ガラス越しなのでうまく写りませんでした。馬は日本歴史に突如として現れた関東騎馬軍団そして彼らを率いて戦った平将門を象徴していると思われます。

 馬に関係する神社らしくポニーを飼っていました。老馬らしく全く動かず静かにひなたぼっこをしていました。

 中山道を横断して湯島聖堂へ行ってみました。神田明神はお祓いを受けるサラリーマンなど参拝客がたくさんいましたが、ここは静かでした。儒教の寺です。儒教は学問なのか宗教なのかよくわからないところがあります。ここは学校として建てられたそうです。

 絵馬がありました。お願いをする人がいると言うことは宗教なのでしょう。

 屋根を守っている鳳凰らしい像とネコ科の動物の像。やっぱり中国の文化なので見慣れない形です。

 

 江戸時代の湯島聖堂関東大震災でほとんど焼けてしまい、この入徳門と水屋のみ焼け残ったそうです。

 入徳門を守る像はバクではないかと思われます。想像上の動物です。

三越のライオン
 中山道は神田駅のガード下をくぐって日本橋界隈に入ります。真夜中にこのライオン像にまたがって誰にも見られなかったら大学に受かるという伝説がありました。今は東京は眠らない街になっているので、それは不可能でしょう。

日本橋麒麟像と狛犬 観光客が大勢写真を撮っていました。

 

日本道路元標 ここがゴールです。ご苦労様でした。

 いずれもう一度 中山道を歩いてみたいと思っています。次回は全部歩くことにこだわらず今回のように要所要所だけを歩くようにして行程を一日20km程度に抑えてのんびりと旅をするつもりです。しかし、私の性格上「のんびり歩く」のは案外難しいです。今回も昼前には着いてしまいました。
 最後にご注意です。市街地を歩く場合、トイレの場所はあらかじめ確認しておくべきです。Google Mapで「トイレ」は検索できます。郊外、山中はその点気楽です。女性は大変かもしれませんが。



 

 

うちの猫はこたつで丸くなりません。

 大雪の日、雷まで鳴って猫にとっては最悪の日のはずでした。うちの猫は避妊した雌猫でもう9歳になります。元々野良だったので野生の本能が残っているらしく、水に弱いくせに雨の日でも雪の日でも外に出たがります。なぜなら、雨や雪の方が鳥やネズミを捕獲できる可能性が高くなるらしいのです。という訳で外に出さないようにしていたのですが、ちょっと出入りした瞬間、ドアの隙間から飛び出してしまい 一晩帰って来ませんでした。凍死されたら困ると心配しましたが、平気な顔で帰って来ました。

 サハラ砂漠にいたリビア砂漠ネコが猫の祖先で、それをエジプト人が飼いならしたそうです。従って猫は水を嫌います。しかし、砂漠でも夜はかなり寒くなるそうなので寒さには強いようです。

 下の写真は夜の猫と昼の猫です。同じ猫とは思えないほど猫相が変わります。

 もう心配かけるなよ。